沿革

2016年3月15日

 古代、忌部氏が、吉野川流域を開拓したとき、粟がよく実ったので、この地域を粟の国といい、一方南の勝浦、那賀、海部三郡のあたりを長(なが)の国というようになったと言い伝えられている。大化の改新には、これらの国を併せて阿波の国と呼ぶようになった。

 当時は、現在の徳島市の西の地域に国府が置かれ(現国府町府中)、国司が住み、ここが政治の中心となり、近くに国分寺・国分尼寺も配されて仏教文化が栄えた。

 中世、鎌倉時代には、幕府による佐々木氏、小笠原氏(後の三好氏)の守護職任命が行われた。室町時代には、細川氏が勢力を張っていたが、応仁の乱を経て、阿波は三好氏の時代となり、長慶は一時畿内にまで勢力を伸ばした。しかし、やがて衰え、土佐より出た長宗我部元親が四国を征した。長宗我部氏は、全国統一を目指す豊臣秀吉に敗れ、蜂須賀家政が阿波に封ぜられた。蜂須賀氏は、現在の城山一帯に居城を構え、この時以後、徳島城下が政治・文化の中心となった。江戸時代の約300年の間、藍・塩・砂糖・葉たばこの専売によって富を築いた。

 阿波と淡路の関係は古くからのもので、淡路の地名は、阿波への道ということによると言い伝えられている。万葉集の巻6の船王の歌「眉の如 雲居に見ゆる 阿波の山 かけて漕ぐ舟 泊知らずも」は、徳島の山が歌われたものだと言われている。

 近世も、徳島藩は淡路も領有していた。明治になり、廃藩置県によって、4年に徳島県が置かれたとき、淡路のうち、津名郡を分離した。間もなく名東県と改称したとき、淡路一円も管轄することとなった。次いで明治6年讃岐国を合併したが、同8年には讃岐国が分離されて香川県が再置された。明治9年名東県は廃止され、淡路一円は兵庫県に、残る名東県は高知県に合併され、徳島支庁を置き、同11年徳島出張所となった。明治13年3月、徳島県は再置されて、今日に至っている。

 県下の行政区画についてみると、明治22年に、市町村制が施行され、徳島市ほか、2町137村が置かれた。このとき徳島市の人口は60,861人で、これは全国10位であった。

 昭和22年3月に鳴南市(同年5月鳴門市と改称)、同26年小松島市、同33年阿南市、平成16年10月に吉野川市、平成17年3月に美馬市、つるぎ町、那賀町、同4月に、阿波市、平成18年3月に三好市、東みよし町、阿南市(阿南市、那賀川町、羽ノ浦町が合併)、美波町、海陽町が誕生、現在8市15町1村である。

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